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西原博史は新しいタイプの新自由主義的左翼?

 投稿者:石頭  投稿日:2007年 5月20日(日)12時21分22秒
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   昨日「5・19ピアノ裁判最高裁判決報告集会」に行ってきました。
 集会の話はさておいて、話題の西原博史氏講演について報告します。
 全面展開する力量もないし、メモ程度の走り書きですが、それでもダラダラ長くなります。

 45分の予定が、90分に及ぶ大学講義並みの講演になりました。テンポ良く、聞きやすい話でした。(ただ質疑応答の時間が大幅に削られてしまいました)
 『世界』論文への批判を、十分に意識して、謙虚な姿勢は保ちつつも、随所に刺激的なフレーズをちりばめ、自己正当化に努めているようでした。
 論文で判らなかったことが、ずいぶん見えてきました。
 ご本人の意識は「都の右翼」どころか十分「反権力」らしいけど、それはどうも「新自由主義」的左翼(新しい概念?)なのではないかと思いました。


■刺激的なフレーズの数々

●最高裁多数意見は、ロースクールの学生の答案だったら、0点だ。
 最高裁は、原告の思想良心は「一般的には」侵害されたとは言えない、としているが、そもそも「思想良心」とは個人各々のものだから、それを「一般」で解釈してしまった時点で、憲法19条を理解できていないから、答案としては0点だ。
 (氏の話の中で、唯一共感できたのは、この部分だけ?)

●地裁・高裁はまだ水準を守っていた。
 合格点を60点とするなら、地裁・高裁は40~50点まで来ていた!?
 最高裁では「一般的」「客観的」基準を持ち込んでと否定してしまった、内心と「外部に表明する行為」は一体不可分であることを、地裁・高裁は認めていたから。
 (ホントかよ!?)

●この裁判は風見鶏の役割だった。先頭で風を受け、時代の中で時代を作る。
 反省を込めて語られているが、改めて示された年表で見ると、管理職・都教委・国に最大限悪用される役回りになっていたことが分かる。

●都議会での様々な問題提起
 右翼都議らによるいわゆる教育「正常化」攻撃を、「問題提起」と表現する感覚!!

●聖職者性と労働者性
 子どもに対する抑圧者の側面を持つ限り、労働者性だけで権利は主張できないという文脈で、聖職者性が語られる。

●思想・良心の「道具化」
 予防訴訟批判の中で語られた言葉。

●誰が子どもを守るのか
 つまり、原則論的に闘って良心的な教師が教育現場から姿を消していったら、もっと悲惨な状況になるという、「ガマン」のすすめのお言葉。

●子どもの教育を受ける権利(=究極目標)実現のために、「国旗・国歌」を問題にすることは是か非か。
 個人の問題を教育に持ち込むな、一部の支持しか得られない、との立場から否定的見解のようだが、このような問題の立て方自体が、予防訴訟よりはるかに「運動論」的である。

●学校が決めたことは常に正しいこと、との神話が崩れた一時期があった。
 99年の「国旗国歌法」成立から03年の「10・23通達」まで、学校側が「内心の自由」を積極的に言っていた時期が、子どもの権利が尊重されていた戦後唯一の時期という。それを奪ったから「10・23通達」はいけない、と。彼は、99年以前は、学校が日教組に牛耳られ子どもを抑圧していたとの前提に立つ。

●どこまで、保護者・子どもの支持が得られるか。
 先生の思想信条を学校に持ち込むな、との反発が生じている、と。西原先生は、この反発に反駁する理論を持ち合わせていなかった。

●生徒に対する人権侵害
 子どもには権力者として立ちはだかる教員が心して臨まなければ行けないこと。では、福岡さんのピアノ不伴奏は子どもの人権を侵害しなかったのか、予防訴訟の不起立行為は子どもの人権を侵害したのか。誰がそれを判定するのか。判定の尺度は憲法以外に何があるのか。

■質疑応答から

●池田さんが、同じピアノ教師で予防訴訟原告でもある立場から、『世界』論文への疑問を投げ掛けました。
 予防訴訟法廷で、個人の信条は十分すぎるくらい立証され、「労働者性」の権利主張とのくくりは、誤解である。「子ども中心主義」と「教師中心主義」は対置されるものではなく、両立するものではないか、など。
 これに対する回答は、大変能弁なものであったが、逃げにしか聞こえなかった。
 予防訴訟弁護団の方針が、現在の問題しか視野に入れず、普遍性を欠いていた。次の同種の問題に対する解決も含まれるべきであったが、現状論では勝ったように見えても、法理論上は解決になっていない。
 回答に先立ち、「難波判決と弁護団の訴訟指揮を批判したもので、原告団を批判する意図はなかった。原告を傷つけるように読めたとしたら、筆の力が及ばなかったことで、謝ります。」と池田さんに謝ったことが印象的でした。

●私も、「教育公務員の職務上の行為に対する基本的人権の適用可能性」について質問しました。
 西原氏は「限界がどこかにある」とぼかしたが、不服従が免職まで至れば「思想良心」が公務員から排除する条件になり、「職業選択の自由」など基本的人権がない前近代に逆戻りするのではないか、との主旨です。世界史的に言えば『審査律』の世界だ。
 回答の中で、すでに「創価学会、共産党」などで排除の動きが見られ、個人的にはよろしくないと思っている、と憲法学者らしからぬ現状追認の言葉がありました。
 西原氏は、「限界」を、「現状」に「憲法」をすり寄らせる形で探っていると思いました。このような学者に任せておいては、「解釈改憲」思いのままでしょう。

■感想

 西原博史氏は、「ピアノ裁判」の意見書を書いたにとどまらず、理論的バックボーンだったのです。
 福岡さん及び実行委員会のメンバーからは、しきりに「子どもの権利に立ち返って」の趣旨の言葉が語られことから、西原理論を信頼しそれに従って裁判を闘ってきたことが分かります。

 だけど、最初、福岡さんが「意見書」執筆を頼みに行った時、西原氏は「思想良心の自由でピアノ不伴奏を立証することは極めて難しい」との見通しを示され、それに対し福岡さんが「どこが難しいかさっぱり分からない」というやり取りがあったそうです。
 最高裁判決が出た後も、二人の間のその距離は、まったく埋まっていないと感じました。

 西原氏や裁判官諸氏は、簡単な話を、わざと難しく語ろうとしてきたような気がします。曰く、究極目標は子どもの教育を受ける権利(思想良心の道具化)、児童に対して一方的な思想や理念を教え込むことを強制する基準(聖職者性)、公務員の全体の奉仕者性とそこから生ずる内在的制約(裁量権)…
 自分で答が分からないなら、支援を引き受けるべきではなかった。

 西原氏は、昨今の現状を好ましくないと思っているのは間違いありません。ただ、彼の「法理論」からすると、法解釈上やむを得ないこととなってしまい、本人も困っているようです。
 なぜそうなるかと言うと、「憲法」に「現状」を合わせようという発想を誤りと考えているからだと思います。理念を持たず、法律解釈をしようとすると、複雑な理屈の陥穽に絡め取られて、最後は「現状追認」の法理論になってしまう。だから、教師・公務員は、今の法体系の下で、どこまで「ガマン」出来るか、みたいな逆立ちした問題設定となってしまう。
 勝てる手だてもつかめないままに、敵の土俵に入って行って闘おうとしたようなもので、その結果がこれですから、これ以降、教育裁判で西原氏の出番はなくなったと言ってよいのではないでしょうか。

 学校の強制性・教師の洗脳力に、子どもの思想良心を守る見地から、一定の制限を設けなければならないとする立論ですが、
 これは、国民(保護者も子どもも教員も)の「自由権」を機械的に等値とみなす19世紀的「アナーキーな自由」であって、「社会権的自由」の見地がすっぽり抜け落ちています。
 最近流行の競争万能・弱肉強食の「新自由主義」的教育論と同じ地平で、教員の思想良心を解釈することになってしまっているのです。
 同時に、国民(保護者も子どもも教員も)に対する国家(都教委・文科省)の権力も、同質の自由とみなして、権力側が為すべき「ガマン」を同じく国民側にも「ガマン」を要求することとなってしまっています。

 西原氏のレジュメのタイトルには、「…最高裁判決の『意義』と問題点」とあり、その7には「新たな地平を目指して」と、何点か今後の手掛かりがあげられていますが、余り説得力を感じませんでした。
 
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