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増田都子さまと共同管理者へ(VOL.2)

 投稿者:衆愚市民  投稿日:2008年12月 9日(火)08時51分59秒
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  拝啓 増田都子様ならびに共同管理者様

さて、ここからが楽しい「敵を味方にする言葉」のやり取りの時間となりますがよろしいでしょうか。

まず増田都子様も共同管理者様も誤解されているようですが、上野千鶴子氏の指摘に、私は範疇に入らないと思います。
なぜなら、仮に朴裕河さんを「利用」し「一部つまみ食い」をする事をたくらむのならば、例えば、
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/1759b2616f85d330bafc08afeb370e5f
でもよかったのです。

しかしながら私はあえて、上野千鶴子氏のあとがきも掲載されているリベラル派の紹介であります、
http://d.hatena.ne.jp/gordias/20070623/1182610967
を添付したのは、1.朴裕河さんに敬意を表し、フェアな態度を示したい為、2.紹介文が内容の引用多く、一番優れていた為、なのですが、そのような配慮を全く感じ取ってもらえず、残念至極であります。

加えて、朴裕河さんの論文に感銘を受けたのならば、朴裕河さんが書かれた文章を引用するのは当たり前の話であり、そこでおまけの上野千鶴子氏の文章を引用すべきという論理は、はっきり申し上げて変だと思います。
簡単に言い換えれば、共同管理者様ならびに増田様のご主張は、「カレー好きが、朴さんのカレー屋に入り、その味に感銘を受けてそれについての評論を書こうとしたところ、オマケで付いている福神漬けについて評論を書くべきだと主張した」ということです。何の為にカレー屋に入ったのかわかりませんよね。
福神漬け好きなら福神漬け屋に行くべき、つまり上野千鶴子氏が好きなら上野千鶴子氏の著作を読み、その評論や引用を行うのが真っ当ですよね? という話です。

それと、私が紹介しました著書を全く読まれずして私宛のお返事を書かれていると、文章を読む限り察せられますが、そのような表層のみの浅薄な理解のみで物事を断ぜられるのは如何かと存じます。(因みに、増田様からご紹介に預かりました『たたかう! 社会科教師』につきましては、少し前に新宿の紀伊国屋で立ち読みさせて頂きました。購読はしておりませんが…)

では、朴裕河さんの論文について、「ご著作の一部つまみ食い」といわれないほど詳しく引用し、持論を述べたいと存じます。

手始めに、『論座2008年3月号』に掲載された、朴裕河さんの寄稿を紹介いたします。
タイトルは「第7回大佛次郎論壇賞受賞記念論文・『歴史認識』とは、枠組みの内と外にいる別の他者の声にも耳を澄ませること」(註:「和解のために」受賞記念論文)です。このタイトルだけで本質のすべてを表しているようですが、引用と参りましょう。

「(以下は論文の抜粋です)
 一方的な“善意”や“愛”が目に見えない非対称関係を作ることを最初に明らかにしてきたのはフェミニズムだった。いかなるときでも一方的に“保護”されるような関係は、支配と従属の共犯関係を保ち続ける。沈黙は矛盾の上にカバーを覆い、矛盾的な構造を固着させるだろう。

(中略)

 民族と階級と性の錯綜した被害と加害の構図を“同時に”問うことは不可能ではない。あるべき“歴史認識”とは、枠組みを固定させてその被害を問うのではなく、枠組みの内と外の別の他者の声にも耳を澄ますことのはずだ。

(中略)

被害国の被害者は声をあげた。加害国の加害者も糾弾されている。この構造の中でいまだ見えないものは加害国の被害者と被害国の加害者である。加害と被害とが重層し、分かちがたい現実をこそ、ポストコロニアリズムは示したのではなかったか? わたしたちに必要なのはその錯綜をときほぐす繊細さと忍耐強さだろう。

(中略)

韓国の左派が疑いえない正義を実現すべく"過去清算"にとりかかったとしても、"親日派"と名指しされる中身の持つ様々な幅と矛盾に無関心なら、それは" レッテル張り"の排他主義の危険を免れない。同じような危険が、日本では"右派"や"自民党"の名づけに付随してはなかっただろうか。自民党体制に抵抗しながら守ってきた大切な価値を、その自民党や政治家に届けるための努力をおろそかにしていなかっただろうか。戦後50年以上日本の体制がなお変わらないとすれば、闘いのあり方を点検すべき時期に来ているのかもしれない。

韓国併合からもうすぐ100年になる。植民地時代における限界を克服しうるきっかけは、ねじれた相互関係のあり方を点検することにあるはずだ。“親日派” や“帝国主義者”をきれいに“清算”するというような思考は、中身を問わない排他主義である点ではかつての赤狩りの思想と本質的に変わらない。
 排除の思考は敵を作り続け、敵とされた人たちは新たな攻撃に回るだろう。帝国主義者が排除を生むのではない。排除の思想にさらされた寂しい魂たちが、自己存在を認めてもらうべく、自己への耽溺とさらなる排除に取りかかり、うちなる帝国主義者となるのである。理不尽な暴力にさらされた者たちは次なる暴力の主体となる。批判しつつも包み込む、異なる他者のための対話の場所を空けておくような闘いのみが、世界を暴力から救うだろう。」


朴裕河さんの従軍慰安婦問題の論評で一貫したメインテーマになっているのは、「加害国の被害者」と「被害国の加害者」の存在です。具体的に言えば「加害国の被害者」とは、「敗戦直後に朝鮮半島に居住していて、性暴力を振るわれた日本人女性」のことであり、「被害国の加害者」とは「敗戦直後に、日本人女性に対して性暴力を振るった韓国人男性」のことです。
朴裕河さんは、韓国側が抵抗民族主義に則った従軍慰安婦論争を行い、「加害国の被害者」の存在を指摘する声に対して猛烈な非難が加えられたことと、「良心的」日本の左派が、韓国の抵抗民族主義に目をつぶり、「加害国の被害者」の卑小化に加担してきたことを、フェミ二ズムのスタンスから、国家に属さない普遍的な女性問題として取り上げ、問題としているのです。

とはいえ、「加害国の被害者」や「被害国の加害者」という存在は朴裕河さんが指摘された問題に留まらず、「原爆投下や無差別爆撃に関する被害と加害の関係」や「シベリア抑留や捕虜虐待に関する被害と加害の関係」など、さまざまな問題にも符合するものであります。

ここで私が増田様と共同管理者様にお尋ねしたいのは、
1.貴方は「加害国の被害者」、とりわけ「敗戦直後に朝鮮半島に居住していて、性暴力を振るわれた日本人女性」の存在を認識せず、枠組みの外に追いやられた彼女らの声に耳を澄ませていなかったのではないでしょうか?
2.貴方は「加害国の被害者」が賠償すべきなのは、戦争犯罪を起こした日本国に対して全面的に求めるべきであり、「敗戦直後に、日本人女性に対して性暴力を振るった韓国人男性」の罪を問題にすべきではないと考えておりますか?

仮に質問と1.と2.に賛意を示すようでしたら、貴方は「みんなが、この世界を分かちあって仲よく生きていきたいと切望する地球市民」ではなく、ただの「韓国の抵抗民族主義への協力者」となると私は判断いたしますが、如何でしょうか?

「“親日派”や“帝国主義者”をきれいに“清算”するというような思考は、中身を問わない排他主義である点ではかつての赤狩りの思想と本質的に変わらない。」という朴裕河さんのご指摘は、かなり幅広く応用ができます。

たとえば、共同管理者様は「正確には”日本人として恥ずかしい”という感覚なのだと思います。いずれにしろ其処には良心の痛みがあり、それを多くの若者の中に見出した時、あなたと違って私の場合は初めて日本人としての輝きや誇りを強く感じます」と、2008年 8月 2日(土)15時24分31秒 の投稿(註:私の投稿ではありません)に対しての返信を書かれておりますが、では、
「日本国籍を持ち、日本国憲法の下にいる沖縄に住む人々も、”日本人として恥ずかしい”という感覚を持つべきですか?」
という疑問が出てきます。
この疑問に対し、
「いや、沖縄の人々は被害者だ。沖縄人は別だ!!」
と反論されるかもしれません。
それに対して、
「では、東京大空襲や原爆投下の被害者、そして敗戦直後に朝鮮半島に居住していて、性暴力を振るわれた日本人女性とその子孫はどうなのですか? 彼らも被害者ですよね」
ということになります。
「加害と被害とが重層し、分かちがたい現実」とは、なかなか厄介ですね。

それだからこそ、
「民族と階級と性の錯綜した被害と加害の構図を“同時に”問うことは不可能ではない。あるべき“歴史認識”とは、枠組みを固定させてその被害を問うのではなく、枠組みの内と外の別の他者の声にも耳を澄ますことのはずだ。」
という朴裕河さんの主張が生きてくるのです。

逆に、「枠組みを固定させてその被害を問う歴史認識」を推し進めることは、とりわけ女性にとって不幸な時代を招来させることに加担すると私が考えております。
つまり、「枠組みを固定させる」と一方的な利益を得て、自らの民族主義やナショナリズムは安泰、そして自らの罪は問われないのですから、「要は勝てばいい」「要は負けなければいい」という発想につながります。
「負けを認めさえしなければ、レイプも略奪も殺戮もやりたい放題…」、残念ながらこの非情な現実は、第二次世界大戦後の朝鮮半島、アルジェリア、チベット、パレスチナ、中南米、ヴェトナム、カンボジア、ペルシャ湾諸国、コソボ、アフガン、スーダンなどで現出しました。
また、「要は負けなければいい」という発想が日本で流布することは、結局は右傾化とアメリカとの一体化につながることにも加担します。

真の平和主義とは、「要は負けなければいい」という発想から生まれる悲惨な出来事を未然に防ぎ、その発想を日本で流布することを抑制することではないでしょうか?

ゆえに、だからこそ、
「 韓国のナショナリズムを問題にするとき、韓国は被害国であるのだから日本と同列において批判するのは不当だ、という意見をよく耳にする。そのような意見は、まったく間違っているわけではない。しかし被害者のナショナリズムと加害者のナショナリズムとの違いは、紙一重ぐらいの差でしかない。なによりもそのような良心的な言葉は、ともすればこうむった被害をかざし続ける間に、被害者自身に目をつぶらさせる。ナショナリズムの無前提の許容は、そのなかにひそむ数々の矛盾――欲望と権力化と言葉による暴力に眼を塞がせ、免罪するのである。」
という自覚を持ちつつ、
「謝罪がうまく機能しなかった時代を歴史化し、まずは日本が謝罪をしたということを承認し、その可能性と同時に限界をも見ておくべきです。」
という必要性があるのです。

さらに付け加えるのであるのならば、日本の「謝罪に限界がある」以上、その不足分は世界平和に貢献する、例えばNGO支援や国連PKO活動に対する積極的参加などで補うという妥協を、日韓、日朝、日中などと結ぶ必要性があると私は考えております。そしてそれこそが「和解」ではないのでしょうか?


最後に厳しいことを書かせていただきますが、上記のような考えを持つ私にとって、増田都子様ならびに共同管理者様のご発言やご活動は、日本が戦争の谷底に向かうことにブレーキをかけているつもりが、間違ってアクセルを踏み続けているように思えてなりません。

以上、「衆愚」の為、些か長文の投稿となりましたが、増田都子様ならびに共同管理者様には本文の掲載とご返答を頂き、私の「蒙を啓いて」もらえることを切に願っております。

敬具

ネット右翼の衆愚市民より
 
    (共同管理者) 長文のご投稿、ずいぶんお暇なようで、過労死寸前の私どもには、うらやましいかぎりです。超多忙ということもあり、あいにくですがすこしも「楽しいやり取りの時間」とは感じておりませんので、別に投稿していただかなくても結構なんですけど・・・。読みたい著作は、他に山のように積み重なっていますし
簡単にご返答申し上げると、同じ本を読んだ人の感想・批評文として、あなたのと上野さんのを比べたら、お話にならないぐらい品位の差があるなあ、と思っただけのことです。
上野さんのが福神漬けとおっしゃるなら、良質の繊細な洋菓子の付け合わせに、消費期限切れの納豆を食べろと言われているような無理があるほどの違いと言いますか…
いずれ著作をとお考えとのことですが、右翼っぽい強引さ・牽強付会ぶりが気になって、私などはとても読む気が起りません。
もう一度引用させていただきますね。
『被害者は決して、被害者になりたかったわけではない。そして、被害者にさせられた被害者は、赦すしかない、と考えるから、赦す。まさか、と思うが、この朴さんの記述を読んで、「韓国の責任を問う」理由ができたと喜ぶような、恥知らずな日本人がいないことを願うばかりだ。真に問われているのは加害者である日本である。』
 
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